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BARでのひと時
公文 剛



二十代から三十代のはじめごろ、若かりし頃、もっぱら「飲む」といえば会社帰りに会社の同僚と、会社近くの居酒屋だった。
9時、10時まで仕事をし、その後行くものだから、帰りは何時も午前様。
そんなころに、若気の至りか、少々背伸びもしてみたくて、いわゆる「BAR」というところに出入りし始めた。

本を購入し、ホテルのBARあたりからはじめ、名バーテンダーといわれる方のお店に、今思えば分不相応と思われるかもしれないが、 あつかましくドアを開けたものだ。
どのお店にも個性あるバーテンダーがカウンターの向こう側に立っており、決して押し付けがましくは無いのだが、 その存在感に押されながら杯を傾けていた。
そういった多くのBARを何十軒も回るうちに、最後に自然と、ある店にだけ行くようになった。

「S」(イニシャル頭文字)という谷崎潤一郎が名付け親のBARである。関西方面のBAR好きの方なら誰もが知っている老舗である。 発祥は大正時代の神戸になるが、神戸の店はすでに無い。

いまでは大阪の堂島が本店のように言われており、大阪市内、京都市内に10店舗ほどあるが、チェーン店ではない。 もともと本店で永年修行した者が、「暖簾わけ」というかたちで、その名を語ることが許された。そしてその後は何店舗かの、 「S」のマスター全員で認められた者だけが、新たにその店名を語ることが許されるようになった。

基本はカウンターでのスタンディング、BGMは特に無く、一枚物の重厚なカウンターの上の天井には、 グリーンの傘を着た白熱燈のスポット。

初めのころは、カウンターの中央あたりには、50代〜60代の老紳士が居並び、マスターと軽く会話をしているなかで、 30代はじめの若輩者の私は、カウンターの隅のほうで、隠れるように、飲んでいた。

飲むものは決まって「ハイボール」だが、現在、TVのCMなどで流れているものや居酒屋チェーン店で出されるものなどとは全く違う。
氷は入れない。キンキンに冷やしたグラスと、同じく冷やした「角ビン」を冷蔵庫から取り出し、 ダブルの位置にカットが入った大き目のグラスにダブルでウィスキーを入れる。その上からウィルキンソンのソーダーを一気に注ぎ、 最後にレモンの皮をピールし仕上げる。炭酸が飛ぶのであまり混ぜることはしない。

白いバーコートを着、黒の蝶ネクタイをしたバーテンダーが出来上がったハイボールをそっとコースターに指を添えて差し出してくれる。 (何のことは無いどこにでもある材料なので、自宅で再現を試みたが、どうしてもあの味にはならなかった。)

4,5年経った頃だろうか、夕方の早い時間に店に入ると、まだ誰も来ておらず私が最初の客だった。 いつものようにカウンターの端っこに立ちオーダーをしようとマスターに顔を向けたところ、信じられないことが起こった。

マスターが静かに微笑みながら、自分のまん前のカウンターの中央の場所を手で案内してくれたのだ。そこはもう少しすれば、 いつものおなじみの老紳士方が来店し、指定席となるはずの場所だった。
そのときの嬉しさは今でも憶えている。やっと大人の仲間入りを認めて頂けた、何時もマスターは見ていてくれたのだ、と。
数年間のあいだ、会社帰りに一人で立ち寄り、2,3杯のハイボールを飲んで帰るだけの若造をちゃんと見ていてくれたんだ、 とマスターの心配りが嬉しかった。

マスターのまん前の場所に立ち、

(マスター)「ハイボールで、、、?
(私)    「はい。

それだけの会話だった。
そしていつものように冷蔵庫から、冷えたグラスと角ビンを取り出し、いつものように手際よく作って、 まだ炭酸の泡の音のするグラスをそっと前に置いてくれたのだった。

どの客に対しても決して押し付けがましくなく、お馴染みの客ばかりに片寄ることも無く、客の一人ひとりをちゃんと見守りながら、 でも振られた会話には微笑みとともに、短い言葉できちんと返す。それも他のどの客が耳にしても心地良い内容の返答を、、、。

カウンターのこちら側と向こう側には、目に見えないが、きっちり一線がありながらも、 客には微塵もそんなものを感じさせない、、、、そんなマスターやバーテンダーの心配りが、他の一流のBARと同じように「S」 にもある。

東京に転勤してからは「S」に行けなくなって、淋しく思っていたが、2003年に関西の「S」のある店のマスターが、 銀座に出店をした。そのことをネットで見つけたときの喜びはそれはもう言い表せないほどだった。

開店後すぐに行き、ドアを開けて、スタンディングのカウンターで飲んだハイボールは関西で飲んだものそのものだったし、 店内に流れる静かで穏やかな空気も、何も変わっているものは無かった。その後、浅草にも店を出し、 銀座店で修行した若手が数寄屋橋にも出店し、「S」は現在東京にも3店舗がある。

銀座、浅草方面に遊びに行った際には、必ず立ち寄り、2,3杯のグラスを傾ける。

新しい店であっても、マスターや若手のバーテンダーの客への心配りは、先輩の店と変わらず、心地良い一時を過ごさせてくれる。

目にも見えず、耳にも入らないが、訪れた全ての客を穏やかに包み込むような雰囲気が、客を交えながら自然と出来てくる。 これも心憎いサービスのひとつの形だと思っている。

最後にマスターの言葉を記載し、今回のコラムといたします。

http://www.samboa.co.jp/column/column_1.html