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変貌する長崎 オランダ坂


田中 慶篤




◇久しぶりの長崎
 年の瀬が押し迫る昨年12月中旬、約25年ぶりで長崎に行く機会に遭遇した。長崎空港が所在する大村市が故郷なので、帰郷のたびに長崎には行く機会があったにもかかわらず、いつでも行けると思い続けながら気がついたら、いつのまにか25年もの歳月が
経ってしまっていた。
 予約したホテルは新地と呼ばれる中華街の入り口近くにあった。中華街といっても横浜の中華街に比べるとスケールは格段に小さいものであり、人通りもそんなに多くはなく
ひっそりとした感じであった。その中華街で昼食をとった後、長崎で一番の繁華街といわれる浜の町をぶらぶら歩いてみた。ここも昔ほどの賑わいはなく、人通りも意外に少ないのに驚いた。長崎を訪れる観光客も昔に比べるとかなり減少したようであると思いつつ、迷路のように盛り場が連なる思案橋の細く曲がりくねった路地を通り抜けて、出島に行くために海のほうをめざして歩いた。
 出島は当時の出島ではなく、跡地として保存されているだけであった。しかも出島跡地の周辺は大々的に長崎湾の埋立て工事がされているために、出島(跡地)そのものは海からかなり後退した位置にあった。長崎港に向かって出島跡地の左手に「夢彩都(ゆめさいと)」という長崎のイメージに似つかわしくない名前とデザインの大型ショッピング・モールがあった。これと同じく昔と比べて長崎の街の景観を変えたと思われる建物としては、この「夢彩都」の近くに函館港を思わせるような、オープンテラスのある木造二階建ての「長崎出島ワーフ」という名の集合飲食店街とJR長崎駅ビルの「アミュプラザ長崎」という名のショッピング・モールが私の見た代表的なものであった。
 
 「夢彩都」と「長崎出島ワーフ」を横目で見ながら、埋め立てられたばかりの長崎港の、堤防の波打ち際に沿って取り付けられた歩道を通って、グラバー園の方向へ歩いた。途中でサイクリング車に乗った一見学者風の熟年の紳士に出会った。グラバー園への道順を尋ねたことがきっかけで、彼は自転車を降りてもと来た方向に向きを変え、私たち夫婦が歩く速度に合わせて自転車を引きながら歩き、長崎の街の変化について延々と話してくれた。長崎の地形はすり鉢型で狭く、彼が指差す方向に殆どのものが見られる程度の広さであった。その話の中で「日本で最初に鉄道が開通したのは新橋と横浜間とされているが、実は長崎が最初なんですよ。その石碑もありますよ。」と彼は妙に説得性のある口調で言った。話に聞き入りながら歩いていると、グラバー園入り口に近い信号のある交差点にいつの間にか辿り着いていた。ここまで来ると、例の学者風の紳士は「じゃあ」と言って自転車に跨り、もと来た方向へ去って行った。私たち夫婦は信号が青に変わるのを
待っている間、自転車に乗った彼の後ろ姿を見送っていた。

◇夕闇のグラバー邸にて
 長崎に来た第一の目的は、イタリアオペラのプッチーニ作曲「蝶々婦人」の舞台でも
有名なグラバー邸を訪れることであった。このグラバー邸の場所一帯はグラバー園と呼ばれ、江戸時代末期から明治時代初めにかけて建築された洋館が、いずれも長崎港を見下ろすように建っている。グラバー邸の他に、リンガー邸、オルト邸、ウォーカー邸などイギリス貿易商の邸宅が有名である。パンフレットにはいずれも旧グラバー住宅というような表示がされている。
 このグラバー園に辿り着くためには、オランダ坂と呼ばれる急な坂道を登らなければならない。石畳の坂道の両側にはいろいろな土産物屋、ホテルが立ち並び、後方には長崎港の海が広がり、前方には大浦天主堂の尖塔がそびえ、異国情緒と云われる長崎らしい佇まいである。
 大浦天主堂を左手に通り過ごして、グラバー園の入り口にさしかかった時、ここで大きな戸惑いを感じた。入り口からグラバー園の途中にある入場券売り場まで、何とエスカレーターが設置されているではないか。しかもエスカレーターの乗降口では、どこにでもあるような光景に出くわした。『まもなく出口付近です。足元に気をつけて下さい。』とエンドレスに音声が流されている。夕刻時で観光客もまばらであり、周囲は非常に静かな中で、このようなエンドレスな音声はエスカレーターを降りて場所的に離れても耳に入り、都会の雑踏の中では殆ど耳に入らず特に意識することはないのだが、ここでの違和感は否めないものであった。しかも、このようなエスカレーターは入場券売り場を通り過ぎても、各々の建物に続く急な坂道の横には必ず設置されているのである。
 さらに驚くべきことは、グラバー邸をはじめとする建築物の見学コースの入り口と出口には、必ず滑り止めのデコボコのある鉄板のスロープが設置されていた。これは車椅子が通れるように配慮されたバリアフリー対応で、当たり前といえば当たり前のことであるのだが、25年前との様変わりに時の変化を感ぜずにはおれなかった。
このグラバー園の中に明治11年に建てられた木造建築“自由亭”という名のカフェがあった。ここでは24時間かけてドリップされたコーヒーとカステラ(福砂屋)のセットがメニューのひとつにあった。値段も700円と何処にでもある喫茶店と同じくらいで、この場所でこの値段はたいへんリーズナブルで、私たちはもちろんこれを注文した。明治時代そのままの内装と調度品の中で、格子のガラス窓から夕闇の長崎港を眺めながらのコーヒーの味と香りは、もう一度訪れたいという気持ちにさせる満足感を十分に与えるものであった。
 グラバー園を出たのは7時近くになって、昼間の温かさをよそに冷たい風が吹き付けていた。すっかりあたりが暗くなった出口のところで、一人の若い男性に呼び止められた。彼は身分証明証を提示しながら長崎大学の学生であることを告げて、『観光客に対してアンケート調査を行っているので、少しだけ協力していただけませんか?』と丁重に依頼してきた。内容は、「何処から来たのか?」「初めてか或いは過去に来たことがあるか?」など、ありきたりの項目を5項目ほど尋ねられただけであった。彼の質問が終わったところで、今度は私が彼に質問をした。それは、グラバー園に入園した直後から違和感を抱いていたエスカレーターについてであった。彼は私の質問に頷き、同意の意思を見せながらも、こう言った。『長崎における坂道の問題は、観光地はもちろんですが、それ以上に高齢化による一般住宅地の方がより深刻な問題になっていますよ。』

 翌日、私たちは空港に向かうバスの窓から長崎の風景を眺めていた。港を見下ろす山の中腹にホテルが幾つかあり、すり鉢の底から登る道の途中に沿って、細長い屋根が所々に見えた。あれは昨日見たグラバー園に設置されていたエスカレーターと同じに違いないと思った。住宅地もびっしりと山の中腹まで大小の家が立ち並び、その一軒一軒が急な坂道で繋がっていて、まるでありの巣を見ているようであった。