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大空の絆 再びの追想(V)

島村 治雄



第3章 西多賀ベッドスクール生徒を遊覧飛行に招待するに至った経緯、会社との交渉

昭和33年青森―東京間の伝書鳩レースの途中に玉浦療養所・玉浦ベッドスクール(西多賀ベッドスクールの前身) に迷い込んだ一羽の鳩が生徒と麻田機長を結びつけたのでした。
玉浦ベッドスクールには、仙台の伝書鳩指導員を勤める方が指導して立派な鳩舎が出来て、生徒の佐々木(現姓 星) さんなどが鳩の世話をしていましたので迷った鳩もそこで羽根を休めたのでしょう。
生徒たちは持ち主の所在が分かり、その鳩を持ち主に返してあげたいが,鉄道では時間がかかり身体を痛めてしまうので、 飛行機に頼もうと考えて、当時玉浦ベッドスクールの近くにあった仙台空港にお願いに行き、 仙台空港からの依頼で仙台―東京の路線を飛んでいた全日空の麻田機長が快く引き受けて、 東京の持ち主まで届けて戴きました。
鳩を預かる日に、星さんと話していた機長は、病気の子供たちが杖をつきながら帰っていく姿をじっと見て、 無口になられたのを星さんが記憶されています。
そのとき麻田機長の中で子供たちに少しでも自分で出来ることはないだろうかという想いがわいてきたのではないかと思います。 そのあとから機長からベッドスクールにすずらんや八丈島のフェニックスが届いたり、 あるときにはおもちゃを持って養護学校にお見舞いに来て子供たちと話をされたりしていました。 また星さんは鳩舎の係りで鳩舎の掃除や、 えさやりなどこまごまとした仕事を引き受けられていたので途中でお腹がすくこともあり、 近くにある空港まで出かけて食堂でカレーライスを食べることも多かったのですが、 たまたま麻田機長が食堂にいらっしゃることもあり、 そのときにはベッドスクールの生活などの話が弾みカレーライスをご馳走になったこともあったそうです。
このようにして麻田機長と玉浦ベッドスクールの生徒とは親しくなっていったのです。 そしてその交流は昭和35年に西多賀に学校が移り、西多賀ベッドスクールになっても続きました。

それではいつごろから麻田機長は子供たちを遊覧飛行に連れて行きたいと思うようになったのでしょうか。
その前に東京―仙台間のフライトはいつから始まったのか調べてみますと、前年昭和32年の4月からです。
最初はDH.へロン機(乗客14人)で飛んでいましたが、 翌年昭和33年6月に札幌―仙台―東京の路線ができてDC3機を使いはじめました。
したがって、昭和33年4月当時はDHへロン機で東京―仙台間を飛んでいたことになります。 昭和38年の時刻表でも東京―仙台ラインは残っていますが機種はすでにDC3に変わっています。
昭和33年6月の参議院決算委員会で山本常務が便数の説明をしていますが、それによると東京―札幌は1日1回、 東京―仙台線1日1往復、東京―仙台―札幌線1日1往復となっています。
麻田機長は昭和32年に入社して、すぐ機長として飛んでいますので東京―仙台間は飛びなれている航路で、 機長預かりの荷物として鳩を預かられたものと思います。
その後DC3の機長として、札幌―仙台―東京の航路も飛ばれていたことと思いますが、 ベッドスクール訪問のときはきちんと休暇をとって他の機長の操縦する飛行機で仙台まで出かけておられたことと思います。
昭和34年10月には三沢―仙台間が開かれ、札幌―三沢―仙台―東京のラインが出来たと思います。 また、同じ日に東京―札幌直行便がコンベア440を使うようになりました。 麻田機長はDC3、コンベア440の操縦試験を通って、 東京―札幌、東京―仙台―三沢―札幌の両方のラインで飛ばれていたのではないかと思います。
したがって毎日仙台空港に寄られることはなく、 機長の交代により1ヶ月に4〜5回程度ではなかったのではないかと思います。
昭和33年に玉浦ベッドスクールの生徒にあったときから、自分で何かしなければという気持ちがありましたが、 そのときにはまだ具体的に遊覧飛行をしようとは考えられていなかったと思います。
しかし、慰問に行って子供たちと親しく話したり、仙台空港の食堂で星さんと会って話したりしているうちに、 自分の出来ることは空を飛ぶことだから遊覧飛行に招待することが自分に出来るベストだ、 という考えが固まってきたのではないかと思います。
前述しましたとおり人を思いやる気持ちは人一倍強い方です。 ハンディを負った子供たちを見て,生活を知り、 子供たちの気持ちを汲んでいるとどうしても空に連れて行ってやりたいという強い気持ちが一層沸いてきたのだと考えます。
ただ、冒頭に紹介しましたように昭和33年8月13日に下田沖でDC3機の墜落で33名の命を失う事故を起こし、 直後は、会社を挙げて原因究明、対策に追われていましたのですぐに会社に申し出ることは、 出来るだけ会社に迷惑をかけたくないと考えている麻田機長ですからできなかったことだろうと思います。
それが昭和34年10月与圧式航空機コンベア440の就航でなんとか日本航空と同じ土俵に上がって 日本の航空界を支えることが出来るようになり、翌昭和35年8月のターボプロップ機バイカウント機の就航、 さらに昭和34年終わりから36年にかけて、 地方空港の開発とともに路線が拡大されてきてようやく安定経営にすることが出来ました。
多分、実際に麻田機長が西多賀ベッドスクール(玉浦から西多賀に移転した後です) の生徒を遊覧飛行に招待したいという考えを具体化して、 希望を会社に出したのは昭和35年暮れか昭和36年新年のことではないかと思います。
運行部から整備と調達が別れ、昭和36年に鳥居常務が専務に昇格され、石田運行部長が直属の上司となりました。 先述のとおり石田部長は麻田機長より先輩ですが、麻田機長のパイロットの腕を素直に認めている方ですし、 鳥居専務は入社以来パイロットをよく統率されてきた方です。
麻田機長の遊覧飛行の企画は運行部長―専務のラインで検討されたことと思いますが、 具体的に機体をどうするか、搭乗する生徒の容態はどの程度か、 運航許可を取るのはどうするかなどの問題もあり簡単にOKを出すことは出来なかったと思います。
会社は地方空港開設にともない、業務も拡大しつつあるときですから、 なかなか具体的な筋道が出来てこなかったのではないかと思います。
さらに、世はジェット機時代の幕開けです。全日空もジェット機購入の準備をしていて、 昭和37年にようやく4機種に絞り込んでいます。そのための業務も増えていますので、 ますます遊覧飛行の話は後回しになってします。

そのとき、麻田機長の情熱と緻密な準備が始まります。
まず機体の確保については、東京―仙台往復便の機体を利用する案(すでに機種はDC3に変わっていたと思います) と札幌―三沢―仙台―東京のラインの機体を使う案があったと思います。
そのうち東京―仙台間往復の便は駐機時間が30分しかなく難しいので、 札幌―三沢―仙台―東京ラインに機体を借用する案が適切と判断されます。
また、病気の子供たちを搭乗させるのですから、不測の事態も考えられます。 当時ベッドスクールの子供たちのほとんどは脊椎カリエスでしたので、企業内の医者にも相談し、 さらには西多賀療養所の近藤所長にも相談されたことと思います。

ここで、通称西多賀ベッドスクールの成り立ちについてお話をしましょう。
この学校は初めから行政の認めた学校として出来たのではないのです。
その経緯は『大空の絆』で書きましたが、初めは子供たちが授業の機会を受けることが出来ず、 見かねて患者の菅原様などが、六郷婦長様の許可を得て個人的に教えていましたが、 近藤文雄所長が赴任して所長自らの活動と父兄の方々の力でようやく昭和32年に岩沼町立玉浦小・中学校矢野目分校 (通称玉浦ベッドスクール)として公立学校になりました。自分たちの力で学校を作ったのです。
そして、当時結核の子供には医療費の補助がなかったのですが、昭和32年PTA会長の今野様が手弁当で国会、 厚生省、大蔵省に実情を訴え、陳情をして昭和33年12月に翌年度から『骨関節結核児童療養費』 が予算化されることになりました。
当時大蔵省の主計官だった鳩山威一郎氏(鳩山由紀夫、邦夫兄弟のお父様)が 『実情を知らなかったのは不勉強で恥ずかしい次第だ』と耳を傾けて聞いていただいたのが記録に残っています。
特に患者先生と子供たちに慕われていた菅原進様が緻密な記録を残されていましたので、 この遊覧飛行のいきさつもベッドスクールサイドからわかってきました。
菅原進様は今年の3月に残念ながら85歳の命を全うされました。ここに心より哀悼の意を表します。
このように西多賀ベッドスクールは自分たちで逆境を切り開いてきたのですが、 医療のトップには常に近藤先生が頑張ってサポートをされてきました。
したがって近藤先生は、麻田機長の子供たちを遊覧飛行に連れて行きたいと言う申し出には、 子供たちの行動範囲を広げよい経験を体験させるためにもぜひ実現したいという気持ちをお持ちであったことと思います。
しかし、当時のDC3にはベッドがありません (43年後の麻田’メモリアルフライトの時にはA320を使いましたがそれでもベッドは1台しかありません)。
歩行できて座席にちゃんと座っていることが条件となります。
それの出来る子にはOKを出すことは先生の責任で出来たことと思います。
全日空のゴーサインが出た大きな部分は近藤先生からのOKのお墨付きであったことと思います。
そのほか、麻田機長の計画は予定ながら緻密に組み立てて、説明に関係者一人一人のところを歩かれたことと思います。
そして、最終的に鳥居専務の許可を貰ってOKとなったのは昭和37年11月から12月初めのことであったろうと思います。
このときの申請書、決裁書などの一切の書類がなかったのは、人から人への伝達、信頼で決められたものだからと思います。 そして、その時期に決まったのは、ジェット機選定の最終段階前の比較的落ち着いている時期で、 関係各部署が落ち着いて協力できる体制があったからと思います。
上層部の了解が取れれば書類は必要なく、麻田機長は整備、仙台支店、 運行部それぞれに大きなつながりを持っていましたから、会って説明すれば 『わかった、麻田さんの依頼なら身体を張っても実現する』ということになったと思います。
書類で申請することにすると、それには個性もなければ、奥の深い意味を察することも出来ません。
多くの部署のトップがそれぞれの意見を述べてきて、まとまるものもまとまらなくなる恐れがあります。
そこには、鳥居専務の『最後には自分が責任を持てばよい』という、 麻田機長への信頼と西多賀ベッドスクールの子供たちへの思いやりに基づく決断があったことではないかと思います。
じつは上層部の思い切った決断で同じようなエピソードを聞いたことがあります。
浅倉博氏が大阪整備工場長時代、昭和45年に全日空は新明和工業の整備部門を吸収して全日空整備株式会社を設立したときに、 浅倉氏は自分の責任で、新明和から120名の転籍者を大阪整備工場で訓練、実務実習をさせたのです。
それは訓練所に頼んで座学から定時整備、 運航整備などじっくり訓練をさせ全日空整備会社の自社倉庫が出来る昭和46年8月まで続いたそうです。
当時生産管理課長であった倉知氏は「会社と会社の話ではなく浅倉さん個人で引き受けたらしい」と語っています。 (『空のチャレンジ』藤浪修著から抜粋)
このように、会社としてよいことであれば自ら身を賭してもやるところも当時の全日空の文化であると思います。
現在の企業に生きる我々にとってこのような重要なイベントを書類も何もなしで行うことは全く考えられないことですが、 当時は人と人のつながりでことを運ぶことが出来たと思います。
その気風は軍隊にもありますし、 戦争を経てきた人々にとって書類より人の信頼が何よりもしっかりした保証であったのではないかと思います。
そして全日空の企業文化である、団結して信をもとに行動することがそれに裏づけされていたと考えます。

そして、三沢空港が38年4月後半に一時閉鎖が決まったのが、 仙台での遊覧飛行の時間を作ることの出来るポイントになったようです。
昭和38年4月の全日空時刻表を見ますと仙台空港には東京―仙台―三沢―札幌の往復便、 東京―仙台の往復便、東京―仙台―函館の往復便の3ラインが入っています。
東京―仙台の往復便は11時30分に東京から到着し12時には東京向けに出発します。 DC3機の使用ですが、30分しか駐機しません。函館便はフレンドシップを使います。 したがって札幌から来る便が一番適しています。
当時の新聞記事を見ると15時すぎに到着して給油や整備の後、 16時5分から15分ずつ2回の遊覧飛行を行っています。
そして17時に東京に向けて出発しています。
当時の時刻表では札幌13時40分出発−三沢15時5分着、同15時30分発―仙台17時着、 同17時25分発―東京着18時50分となっています。
このままでは新聞記事の時間に合致しないので考えたのが、三沢空港の閉鎖になっていたのではないかということです。
ご承知のとおり三沢空港は米軍、自衛隊の基地でもあり閉鎖になることがあったのです。
全日空関係の方に聞いてみると十分その可能性はあるとのことです。
したがって4月の後半は札幌―仙台―東京のルートで飛んでいたのではないかと思います。 札幌から仙台に直行すれば3時には間違いなく到着します。 搭乗客は仙台から東京に向けて出発する客だけと考えられますので17時出発ということは十分考えられ、 その間約2時間の猶予がありその間に遊覧飛行を行ったと考えるのが妥当と思います。
三沢空港閉鎖予定の情報を安西常務あたりがすぐにキャッチして、鳥居専務のゴーサインになったと思います。
それが昭和37年12月のことだろうと考えます。
それを基にして、麻田機長が来年4月に遊覧飛行をしますとの手紙が来たのではないかと思います。
また、4月を選んだのはもうひとつの理由があります。
DC3は与圧装置がなく、エアコンもついていませんので、冬には寒くお客さまはオーバーを着こんで乗らなければならず、 コックピットでは窓が内側から氷結すると航法計算用の大型三角定規でパイロットがキーコキーコと 氷を削り取る作業から始めなければならないとの事です。
夏には滑走路で飛行OKの指示待ち(ホールド)の時などコックピットは灼熱地獄なのでステテコ姿になることもある状態ですから、 気候のよい4月でないと子供たちを乗せるわけには行かなかったと思います。

ついで大きな関門は、仙台航空局への届出と整備です。
これは全日空の仙台支店のお世話になったのでしょう。
障害者の子供たちを搭乗させるのですから、これにも近藤所長のお墨付きが必要であったことと思います。
また、整備のメンバー(東京、札幌、仙台とも)には特に念を入れて運航整備をするようにお願いしていたと思います。
そして電話でベッドスクールと全日空の担当の間でいくつかのやり取りがされています。 たとえば搭乗人員は当初生徒50名、教師、医師、看護士2名ずつの56名と考えていたのですが、 生徒を2名減らしてくださいと全日空から依頼しています。
これはDC3の定員が31名で、パイロット、コーパイ、スチュアーデス2名の計4名のフライト要員が搭乗しますので、 1回27名しか搭乗できないことになります。 教師、医師、看護士は2回の飛行にそれぞれ必要ですので、生徒を2名減らしてもらって生徒を2回に分けて、 24名ずつ搭乗させるためです。
また、当初は4月28日に行う予定で進んでいますが、途中から29日に変更になっています。
この原因はいろいろ考えられますが、 多分麻田機長のフライトスケジュールと交代する機長とのスケジュール調整のためと考えられます。 当時麻田機長はバイカウント機の機長として、東京―札幌間、東京―大阪間を飛んでいたと思われますので、 東京―仙台―札幌のラインに登場するために機長の交代が必要でその調整が必要であったと思います。

このようにして体調を見て子供たちを乗せる、乗せないの判断は近藤所長が一人一人を見て責任を持つ、 飛行の問題は麻田機長が責任を持つというきちんとした責任体制を取ることが出来たと思います。 乗れなかった生徒は、 残念ながら自分の身体を考えると無理だろうと今では考えられない大人の心を持っていたことでしょうし、 搭乗できる子供は、乗れなかった子供に帰ったら飛行機の話をしてあげようと約束をしていたのだろうと思います。 ご父兄の方も空を飛んだ経験がない方が多かったと思いますが、戦争を経験された方々ですので、 子供の体のことは近藤先生と麻田機長に任せて、 子供が目を輝かせているのを見て本当によい経験になると喜んでいらっしゃったのではないかと思います。 今野君はお父様の背中に負ぶさって搭乗することが出来ました。

そしてスチュアーデスの方々について考えて見ます。
DC3の尾輪は飛行中も引っ込まず小型のもので、翼の間にある前輪2つが大きくて駐機の時は前部が高く、 後部が低いので、キャビンでは坂道を歩くようなものです。 スチュアーデスはその坂道をハイヒールで上がったり降りたりするので大変だったそうです。 そして冬場にはスカート姿で寒さに対抗するために毛布を足に巻きつけて座っていたりしたそうです。 しかし、当時のスチュアーデスは立派なものでそれを苦にせず、お客さまのサービスに心を込めたそうです。 この遊覧飛行に付き添ったスチュアーデスの方を探すことは出来なかったのですが、 子供たちの心から喜ぶ顔を見て、 心が洗われる思いでスチュアーデスになった自分を本当に幸せと思ったのではないでしょうか。 そして、子供たちが疲れないように気を配り、 心細くならないように精一杯の笑顔でもてなされたのではないでしょうか。

当日の麻田機長は、久しぶりの札幌―仙台―東京の便で懐かしさがあったと思いますが、 子供たちを機内に迎えたときには、長年の想いがかない、 子供たちの笑顔を見て本当にこの遊覧飛行を実現してよかったという気持ちだったと思います。
そして飛行の時には、幸い好天に恵まれましたが、雲を避けて慎重のうえにも慎重に、 揺らさないように心した合計30分の飛行だったと思います。
子供たちの手記にも「松島上空を飛び気がついたら着陸していた」 と離着陸のショックなど全く感じなかったようです。
実を言うと、DC3は飛行中には安定性の優れた飛行機ですが、 地上を滑走中には尾輪を浮かして機体を地面に平行にして主翼の間にある二つの主脚で走行しますので、 横風を受けるとまっすぐ進まなくなる性質があります。 方向舵とパワー調整で偏向の初期にすばやく調整する必要がありますが、 麻田機長にとっては当たり前のなんでもない操作であったと思います。
福島民友新聞の昭和38年4月30日の記事を見ますと 「・・・子供たちの約束を果たした麻田機長は生徒たち50人の見送りを受け同日5時に仙台空港を離陸した。 生徒は飛行機が西の空に黒点となって消えるまで手を振り続けていた」と報道されています。

遊覧飛行を終えて、子供たちに一生忘れない感激を胸に残して、 麻田機長は東京に向けて定時に仙台を飛び経ちましたが、 麻田機長には敗戦で途切れてしまった空への想いをもう一度心より味わっている自分に満足されていたのではないでしょうか。
そして、自分が心から願っていた遊覧飛行を認めてくれた会社の諸先輩、 協力してくれた同僚たちへの感謝の思いでいっぱいだったのではないでしょうか。
そこには記録を残しておこうという気持ちもなく、やりたいことをやれたという満足だけが残っていたと思います。

小生が会社と麻田機長の交渉について調べようとしても、 何も答えが返ってこないのは麻田機長が 『そんなことはやめてくれ、自分は思いを貫いただけで、むしろいろいろな人を巻き込んで、 会社に迷惑をかけたのだからそっとしといてくれ』といわれているように思います。
鳥居専務や石田部長なども、 『自分たちは何もしていないよ。麻田機長が熱心で、しかも会社にも社会にも良いことだから黙認しただけだよ。 麻田があのように言っているのだから、あまり騒がずにそっとしておいたほうがよいのではないか。 我々も麻田もこちらの世界に来ているので、空の上でポツリポツリと話し合っているよ』といわれているような気がします。
現在の全日空のなかにも、良いこと思うことは積極的にやろう、という精神が残っているように思います。
麻田’Sメモリアルフライトで130人のボランティアが集まったこともその証左と思います。

参考文献
『こっくぴっと』 神田好武 著
『空へのチャレンジ』  藤浪 修 著

追補
現在の西多賀養護学校は、文中のとおり最初は昭和32年4月岩沼町立玉浦小中学校矢野目分校 (通称玉浦ベッドスクール)として正式な学校になりました。
そして、昭和35年7月に場所を移し、仙台市立西多賀小中学校療養所分校(通称西多賀ベッドスクール)となり、 昭和48年4月に宮城県立西多賀養護学校となりました。
したがって、昭和35年に麻田機長が鳩を預かるときは玉浦ベッドスクールと表記して、 昭和38年の遊覧飛行のときは西多賀ベッドスクールと表記しました。