TOPICS 327   BACK

大空の絆 再びの追想(U)

島村 治雄



『第1章 当時の全日空の企業文化を推測する』から続く

第2章 麻田機長の人となり

次いで、麻田機長の人となりについて考えて見ます。
ご両親の出身は舞鶴ですが、京都に住まわれていて、お兄様は京大の医学部に進まれています。
本人の麻田正少年は典型的なやんちゃな次男坊タイプで活発に遊ばれていたのでしょう。
学校では多くの生徒が目標にしていた京都商のレベルはお前には無理だといわれていたのですが、 負けん気の強い麻田少年でしたので冗談じゃないと集中的に勉強して見事合格されました。しかし、 その学校で問題が起きました。
不良の生徒をかばって、彼が悪いのではない、先生の教え方が悪いのだ、 と教壇で堂々と先生を批判したので即刻退学を命じられたとのことです。 そして私立の中学に転向せざるを得なかったとのです。
世は軍国時代で、先生にたてつくなどはとんでもないことなのです。しかし、 日ごろから麻田少年の心に人を差別する先生の態度が我慢ならなかったのだと思います。 同級生をかばう気持ちで起こした出来事でした。

この出来事から麻田少年の性格を考えると、弱い人、虐げられた人を思いやる気持ちが人一倍強かったと思います。 権力で押さえつけることに我慢が出来なかった正義感がここに覗いています。 全日空時代の麻田機長を知っている神田機長にそのことを話すと、意外そうな顔をされていました。
パイロット然とした気難しい雰囲気でなく、 パイロットの写真モデルを広報から要請されると気軽に応じて子供たちと一緒に笑顔でカメラに向かい、 飛行機から降りると整備にも顔を出して自ら手を汚して整備も手がけられる麻田機長の姿を見慣れている神田機長にしてみれば、 麻田機長が昂然と権力にはむかったことが考えられないことだったと思います。
さらに私立中学に転向してから成績は抜群でスポーツ万能であった麻田少年は当然同級生に頼りにされ、 同志社大学の学生にいじめられたと友達が訴えると、 「ようし」と叫んで同志社大学に飛び込んで大勢の学生に対し正少年一人のけんかが始まり、 収拾がつかなくなり警察のお世話になられたそうです。
中学校の先生がこの生徒は成績優秀で正義感の強い子供ですと警察に身柄引き受けに来てもらったとのことです。 ここにも先生や友達から大切にされる性格があらわれています。 全日空でも先輩、同僚、部下から受け入れられていた麻田機長の面影がここにも覗いています。

成人されて、子供を持ってもおなじで、 テレビでかわいそうな子供の姿が放映されると涙を流して見ておられたほど人を思いやる気持ちは続いていました。
当然お子様をかわいがり、子煩悩で、神田機長のお持ちの写真でも、麻田機長の非番のときとおもいますが、 羽田空港に私服姿でお嬢様を連れてこられて、制服姿の神田機長との3人で写されたものがありました。
また、パイロット仲間の社員旅行では熱海にお嬢様を連れて参加されることもあったようです。
また、お子様が学校でいたずらが過ぎると先生に言われてからは、出来るだけ学校にも顔を出されていて、 とうとう麻田機長用のいすが教室に準備されるようになったというエピソードからも お子様への愛情にあふれた方であった方であることが分かります。
小生はもし学校から子供が教室でやんちゃで困るといわれても、 麻田機長のように学校に頻繁に顔を出すことまで出来ないだろうと思います。

パイロットですから運動神経は優れていて、学生時代には野球のピッチャーであったそうですし、 時代から見て多くの少年が大空に憧れていたので、 麻田青年も学校卒業後はパイロットになろうと決心したのも当然の流れでしょう。
しかし、麻田青年は変わらず権力の横暴、人を虐げるのを嫌う気持ちは強かったので、 階級社会である軍隊に入る選択肢は全く考えていなく、逓信省航空員養成所の門をくぐりました。
航空員養成所の先輩の神田氏も軍隊が嫌いだったから養成所を選んだといわれています。
養成所には反骨精神を持ったメンバーが多かったのではないかと思います。そのなかで麻田氏は最初から頭角を現し、 初めて単独飛行をしたときに、教官たちがやっている宙返りをして見せて、後で大目玉を食らったりしたそうです。
それだけでなく、パイロットとしての細かな感覚に優れていて、夫人の話では、 勘が鋭くて予知能力などもあったのではないかということでした。
たとえば、神田機長の話でも、ジェット機はプロペラ機と違い降下率が自由に調整できるのですが、 そのため、今まで一定の降下率で降りるプロペラ機で上手なパイロットでもジェット機ではつまずく原因になるようです。
時間と空間の認識が優れていなければジェット機をきちんと適切に降下させることは出来ないとのことです。
しかし、麻田機長はジェット機の訓練でも優秀な成績だったということです。
また、昭和32年入社のためにパイロットの試験を受ける勉強を始められたのですが、 子供たちの騒いでいる居間でも平気で勉強されていたとのことです。それだけ集中力もあったということです。 その勉強は、全日空に入社してから運輸省航空局にいたもと養成所の同僚から技術的な相談を持ちかけてきたということからも 優れていたことが分かります。

昭和35年ターボプロップ機のバイカウントが就航しますが、この飛行機は足回りが弱く、 ハードランディングをすると足が壊れることがありました。しかし、 麻田機長にとってソフトランディングは当たり前のことでバイカウントにもきちんと適応されていました。

戦前は、熊谷の陸軍飛行学校で上級訓練を得て、直ちに逓信省飛行員養成所の教官として各地を回ることになりました。 そして仙台で奥様と結ばれるのですが、結婚前に、指導教官として訓練中に、 部下から操縦桿を取り上げてタイピストだった奥様が通勤で乗っているバスに向けて何度も急降下して、 バスの乗車している人々を驚かしたりされたそうです。奥様は本当に恥ずかしかったとお嬢様に話されています。 訓練生も驚いて『教官、今のは何の訓練ですか』と聞いたのに対し、 『いや、自分の急降下の技術を貴様にみせてやっただけだよ』とシラッとされていたそうです。

終戦時、最後の時に奥様を練習機に乗せて最後のフライトをされた話を大空の絆で紹介しましたが、 その行動も軍という枠にとらわれないで、愛する人と一緒に最後の飛行を行いたいという心からの想いの現れと思います。
多分麻田機長のような行動を終戦時に取った方は他には皆無であろうと思います。
そして、機長の誰よりも整備に顔を出して、 自分の飛ぶ飛行機について打ち合わせや時には手を汚して機体のチェックをされていたのは、 飛行教官として部下と自分を守るために当たり前として行われていた、整備を自分で確認する習慣が戦後も継続して行われ、 多くの人の命を預かる責任と慎重さを物語っています。
さらに、病床から上司である安西様に遺書を墨筆で書いて出されたのは、これからジェット時代になり空の移動が多くなるとき、 多額の経費をかけて訓練を受けた自分の腕を会社にささげることが出来ない無念さを謝罪の気持ちにして、 いてもたってもいられなかったからではないかと思います。

戦前から戦いを超えて鍛え上げられた、 責任感と奉公の精神を強く持っていらっしゃったことを意味するのではないかと思います。
これらの行動を集めてみて判るのは、 麻田機長は、ただただ、自分の好きな空を飛ぶ仕事に戻ったことが幸せで自分は恵まれているので、 他の人に対して自分で出来ることは何でもしようと考えられていたことではないでしょうか。
穏やかで、静かな態度のなかにも、内に秘めていたのは、強い正義感と家族への深い愛情、会社への責任感、 次の世代を担う子供たちへの一貫した慈しみの心、 さらに一緒に飛んでいるキャビンの中のお客さまを大切にする心であったと思います。

以下、第3章に続く