TOPICS 326   BACK

大空の絆 再びの追想(T)

島村 治雄



大空の絆で、全日空の麻田機長が昭和38年4月29日に西多賀ベッドスクールの生徒を仙台上空の遊覧飛行に招待したときの いきさつと43年後に麻田’sメモリアルフライトとしてボランティアで行われた飛行について書きましたが、 そのときに一番疑問に思っていたことが、昭和38年に麻田機長お一人の力でよく会社を動かして、遊覧飛行にこぎつけられ、 そのときの会社の協力体制はどのようなものであったか、ということでした。

このいきさつは、全日空の記録としてまったく残っていなくて、なんとか少しでも事実を探りだそうとしましたが、 関係者の方々がすでに鬼籍に入っておられることもあり、調査の手段も途切れてしまい残念ながら部外者で浅学非才の小生では、 確固たる事実を見つけることは出来ませんでした。

しかし、何人かの方からお問い合わせもあり、小生も気になりますので、ご存命のK機長様にお話を伺ったり、 全日空の当時の歴史を基に当時の全日空の活動の様子を推論をし、 それに麻田機長のお人柄を合わせてこの問題に取り組んでみることとしました。

これは小生の独断が入っていますので、史実とは若干違うところがあると思いますが、ご容赦ください。 また、往時の様子をご存知の方がいらっしゃいましたらご連絡戴ければありがたいと思います。

第1章 当時の全日空の企業文化を推測する

全日空は昭和33年に下田沖のDC3機の墜落事故や一連のトラブルで、国会にも喚問され、中野専務、 鳥居常務がその原因説明や改善策を答弁しました(昭和33年12月参議院決算委員会)そして、日本航空にパイロット、 整備の研修を依頼し、さらに寄せ集めで仕様がばらばらであったDC3機を国の資金援助を受けて、 全機を統一仕様に改めました。
併し、事故で失った信用を回復するのに大変な努力を要したのですが、 航空輸送は日進月歩で進んでいますので昭和34年にコンベア440を就航させました。 これはDC3が与圧式でないために2000〜3000mの高度でしか飛べないのに対し、 与圧式で4000〜5000mの高度を飛ぶことが出来ます。この機種を導入したとき、 日本航空はまだ与圧式でないDC4を使っていたために、日航機を下に見て飛ぶこともあったといわれています。 そして昭和35年には日本で始めてのターボプロップ機であるバイカウント744就航させます。 いよいよジェット時代の幕開けにあります。
併し、その年は一方では悲劇が起きました。

日本ヘリコプター社の創立者の一人である中野勝義専務が北海道丘珠空港付近で墜落事故により命を落とされました。 まさに巨星落つ、という言葉のとおり、 創立時から日本人の手で日本の空を飛ぶという夢を実現するために部下を叱咤激励して会社をここまでに育てられた方で、 全日空にとっては大きな痛手となりました。
中野専務の遺産であるコンベア、バイカウントの就航でようやく全日空の経営状態は安定しました。 そして昭和36年美土路昌一社長から岡崎嘉平太社長にバトンを引き継がれました。

ここで美土路社長時代の会社の状況を説明しておきましょう。昭和27年12月に日本ヘリコプター輸送株式会社 (今でも航空会社コードはNHです)としてスタートしましたとき、社長は美土路昌一氏、 副社長岡崎嘉平太氏、専務福本柳一氏、常務中野勝義氏、運行部長鳥居清次氏でした。
戦後日本人の飛行が禁止されていたときから、『日本人の手でもう一度空を飛ぼう』という目標で集まった方々です。 美土路社長は朝日新聞航空部長出身で、昭和12年朝日新聞社が、イギリスジョージ6世戴冠式を記念して『神風号』 で東京―ロンドンの親善飛行を行ったときの責任者が当時編集部長であった美土路氏でした。
美土路氏は昭和33年の下田沖事故のときに、「いかなることをしても人命は償えない。 こんな年寄りだが代われるものなら代わりたい・・・・」 と被害者の家族に一人一人丁寧に頭を下げてお悔やみを言われていたそうです。
当時の全日空を称して『現在窮乏、将来有望』と述べたのも美土路氏です。

常務の中野氏は昭和4年法政大学で日本最初の航空研究会を立ち上げ、同郷の内田百聞教授を部長に据えた方です。 その法政大学航空研究会は、もう昭和6年には青年日本号という飛行機でローマまでの飛行を行っています。
その企画には中野氏が大きな役割を占めていますし、先述の神風号の親善飛行には、 当時法政大学を卒業して朝日新聞航空部に所属していた中野氏も成功のために駆け回った一人です。
このように中野氏はパイロットの資格は取りませんでしたが、 持ち前の情熱と企画力で戦前から航空業界にいくつもの大きな足跡を残されています。
戦後、日ぺリを立ち上げて、まずヘリコプター事業からスタートすることを提案されたのも中野氏で、 飛行機事業がなかなか軌道に乗らないときも、ヘリコプター事業での収入で会社を支えることが出来たのです。
さらに最初は日本航空から借用したダブ機からスタートし、へロン機を経て世界のあちこちからDC3を集めて体制を整え、 郵便輸送の認可も取得して航空会社の体制が整いました。
次世代機としてのバイカウント機の選定、ジェット時代への準備など、先々を見越した手を中野氏は打ってこられたのですが、 バイカウントの就航したのを見届けて、残念ながら昭和35年の事故で急逝されたのです。
法政大学の理事としても、 医学部の創設を企画して精力的に活動されましたが残念ながら実現しないうちに急逝されてしまいましたので、 推進力を失った医学部の企画は今でも実現していません。もし事故がなければ、 と思うのは全日空も法政大学も同じと思います。

昭和36年から社長に就任された岡崎嘉平太氏は日銀出身、終戦時は中国で上海大使館参事官の立場で、 日本人の帰国のために中国と折衝された方です。
全日空社長を務めながら、中国との関係修復に努力され、 国交のない中国との貿易のために高崎辰之助氏と中国の寥承志氏との間に締結されたLT貿易の陰の立役者で、 その後も周恩来にも信頼されてまさに中国と日本の架け橋になられました。
中国とのきっかけは、一高の学生時代、親しかった中国人学生が日本の軍国化と中国人を蔑視する世論に失望して 『もう日本から学ぶものはない』といって帰国してしまったことです。
親しい友が去ってしまったとき、 友にすまないという気持ちと大切な隣人との関係をこのまま終わらせるわけには行かないという信念が沸き起こり、 そのときの心の傷から誠心誠意日中友好のために活動されることとなったようです。
周恩来が『中国人は井戸の水を飲むときに、井戸を掘った人のことを忘れない』という言葉で岡崎氏に謝意を表しています。
その人となりは会社経営にも現れていて、『信は縦糸、愛は横糸、織り成せ人の世を美しく』 という言葉を会社経営の柱に据えられて家族的で『和協』の精神が会社の中にありました。

競争相手は、国を代表する日本航空ですから、押しつぶされないようにみんなで団結し助け合うしか方法がなかったとも言えます。 (現実に日本航空からは陰に陽に差別を受けていたそうです)パイロットと整備を統括されていた鳥居部長は、 静岡県の天竜川河口の福長飛行機研究所(福長浅雄氏設立、天竜10号という民間で製作した最初の飛行機を作ったところ) でパイロットの資格を得られ、航空局のパイロットから中華航空に移られています。
鳥居氏は、ほとんどのパイロットが逓信省や軍の養成出身であるに対し、 民間の養成所出身なので差別を受けて苦労されたようですが、その苦労が人物を鍛えたのでしょう。 部下には大変慕われていたようです。中華航空に移るときも鳥居氏を慕って何人かのパイロットが同行しています。 戦後、日ぺリの設立と同時にパイロットを集めるために人脈を使って全国を歩かれています。
同社でヘリコプターや飛行機を最初に飛ばし、 バイカウント機の引き取りやボーイング727の選定と最初の飛行に携わった神田好武専任機長も鳥居氏の勧誘で入社されています。 日本人の手で空を飛びたいという設立のビジョンに賛同する方が多く、鳥居氏の努力でパイロットは優秀な方が集まりましたが、 整備士は日本航空の勧誘がつよく、なかなか集まらなかったようです。

後に整備出身で副社長になる浅倉博氏の話では、日本航空は官製の堅苦しさがあり、 外国人中心なので自分の性格合わないと思い全日空に入ったということです。 同じような思いで全日空に入った方も多いのではないかと思います。
このようにして、昭和32年麻田機長が入社する同じ年に日ぺリは12月に極東航空と合併して全日本空輸株式会社になりました。 幹部は美土路社長以下変わらず、 パイロットは神田、岡、石田、森、細淵、本田機長らが所属し、 整備は川端次長、清水整備管理長、浅倉整備副長などでした。

パイロットの方の多くは戦前中華航空など民間航空に勤務された方が多く、 麻田機長と同じ逓信省航空員養成所出身の先輩がおられました。そのパイロット、整備を統括されていたのが、鳥居常務です。 多くの方が戦争を経験されていて、当時の軍の横暴さ、 階級意識の強さに抵抗感を持っていて官僚的な考えに反対する方が多かったようです。
それもあるのでしょうか、パイロット仲間では上下関係があまりなく、 先輩の岡さんに対しても麻田機長は岡ちゃんと呼んでいらっしゃったようです。 そしてパイロットの技術の優れた方を素直に尊敬する気持ちが出ていていて、麻田機長の腕は神業だ、 と先輩の石田機長からも認められていました。
麻田機長は、逓信省航空員養成所の教官から19年に非常時のために、陸軍に入隊することとなりましたが、 教官の技術を認めるのではなく、一律に伍長の位で任官したそうです。 麻田機長が夫人に『俺の腕で伍長とは軍も目がないのだな』とつぶやいておられたそうですから、 全日空の雰囲気は麻田機長にもピッタリのものだったと思います。

このように全日空の企業文化はトップの考えや、社員の経験を基に、厳しいけれども一致団結してことに当たること、 信を貫く、ということ『和協』の精神が基盤にあることではないかと思います。
中野氏にしても仕事には厳しいけれども、アフターファイブは部下と一緒に飲みながら将来の全日空の夢を話し合っていたし、 浅倉氏も部下と飲みながら最後は『加藤隼戦闘隊』の歌で終わりになりました。
この頃の全日空の企業文化は、仕事は厳しいが信を絆として、家族的な助け合いの精神が横溢している文化といえましょう。 先任パイロットの神田機長も、自分が飛ぶのが好きなので正月などは若いパイロットを帰郷させて、 自ら操縦桿を握ることが多かったそうです。
上位の人々が進んで自ら動くので、下位の人々も尊敬し、喜んでハードワークをこなしていたのだと思います。 機材も豊富にはなかったのですが、お互いに融通しあって何とか工夫して安全を確保してきたというところでしょう。

以下、第2章に続く